読書感想文『夜なく蝉たち』|透明な輪郭をなぞる時

 

わたしは『夜なく蝉たち』を読んで、この社会において「透明」にされてきた存在について考えた。

 

そもそも『夜なく蝉たち』において「透明」とは何を指すのだろうか?それはやはり倫と蛍のことだ。

二人はアロマンティック・アセクシャルの男性だと、作者である家長むぎによって明言されている。しかし社会はそんな二人を悪意なく「透明」にする。

カフェの店員は倫の指輪を見て〈結婚してたんですね〉と声を掛ける。倫の姉は婚姻相手について〈これからの人生を共に歩みたい愛しい人のことで、それを知らないまま一生が終わるなんて損〉だと語る。蛍が働く喫茶店の常連客は〈私は同性愛とか変だと思わないし、むしろふたりなら絵になって尊い〉と述べる。どれもこれもシスヘテロが前提な上に、恋愛・交際・結婚をベースにしたマジョリティ仕草な意見ばかりで最悪だ。

 

現実でもマイノリティへの悪意なき差別は存在している。そしてその度に「透明」な存在は初めから「透明」なのではないと思わされる。

 

わたしは現時点では(恋愛的思考・性的指向は流動的である)広義のアロマンティック・アセクシャルを自認している。

しかし繰り返される家族や親戚からの「彼氏は?」という質問。「最近どう?」の後に続く恋人の有無についての話題。結婚情報サービスや雑誌のコマーシャル、電車の婚活についての広告、ファッション雑誌で多用される「モテ」や「男性ウケ」

それらは少しずつではあるが、確かにわたしを「透明」にした。その証拠に、ごく最近までわたしは広義のアロマンティック・アセクシャルであることを自認出来ずにいた。恋愛や交際や結婚が大前提とされているせいで、それらを必要としない自分に気付けないままでいた。わたしはいつからか自分で自分をも「透明」にしてしまっていたのだ。

 

『夜なく蝉たち』はマジョリティによる無知や眼差しが持つ暴力性をあらゆる形で描く。それらをなぞる度に、わたしは日常生活の中で身に覚えがないか考えさせられる。

例えば誤った使用方法が散見されるALT機能、日常的に見かける肘置きのあるベンチ、あらゆる場面で求められる性別記載、「ガイジン」という差別用語やメディアで頻繁に見かける「ハーフ」への固定観念。それらは全て誰かを阻み、時に消し去る。

自分がマジョリティ側に立つ時に「知らない」こととは、大抵の場合「知ろうとすらしていない」ことなのだと何度も気付かされる。

 

また蛍は「ひとりとひとりのまま、誰かと生きていきたい人」、倫は「自己完結した生活を自らの選択で営む人」であり「誰かに縛られない人」である。

『夜なく蝉たち』は二人を社会において一括りにされやすいマイノリティとしてだけではなく、アロマンティック・アセクシャルの男性という共通点を持ちながらも大きく異なる個人であることを如実に表現している。

今回「透明」と表現した「マイノリティ」はマジョリティにとってはただのマイノリティという大きな括りかもしれないが、紛うことなき個人として存在する。

 

今後わたしに必要なことは、確かにどこかで生きている「透明」の存在を知ることだ。より多くの「透明」にされてきた個々の声を聞くことだ。

それは全ての人が共に生きることに繋がると、わたしはそう信じている。

 

https://note.com/mugi2434/n/n99a0c01e1991